|
|
|
|
1 |
玉電代行輸送をしていた時代を考える |
|
|
|
|
|
|
|
玉電代行が実施されていたのは、昭和40年代後半です。まさに日本の高度経済成長期とダブります。個人的には、東急バスが一番輝いていた時代ではないかと思っています。路線数、運転回数ともに頂点に達した時代で、これほどの状況は、今後どんなに景気が回復してもやってくることはないほどの盛況振りでした。1000回を超える輸送を一気に開始できたのは、路線面、運行面、車両面などあらゆる東急バスでしかなしえなかったほどの偉業です。そもそも大橋営業所の敷地も玉電の車庫であったため、10,000uを超える敷地が確保できました。 その頃は、渋谷へ行くと次から次へとひっきりなしにバスがやってきて、子供心にもすごいなあと感じていたことを思い出します。それを考えると渋谷駅も淋しくなったなあと思う今日この頃です。渋谷駅のバスターミナルに所狭しとバス停があって、バスが行き来する姿をいまでは想像できなくなってきました。南口も姿をかなり変えていますが、東口は東急文化会館もなくなったりしていますのでその変化大きく感じます。246や道玄坂周辺にバス停があったのもうそのようです。南口バスターミナルも再開発の話があるようで、人工地盤が敷設されるようです。そうなるとかつての面影もすっかりなくなってしまうので今のうちに記録していたほうがよさそうです。 私は、大橋営業所が誕生した年に生まれたので思い入れもひとしおだったので、営業所が廃止された際は感慨深いものがありました。なかでも渋41は、地元を走る路線ということで大変お世話になりました。最終の大橋行きのバスには、最後まで常連のお客さんが乗車されていたのがいまでも思い出されます。大橋営業所の末期には、夜間高速バス(ミルキーウェイ)の運行の名残か、他社の高速バスの駐車スペースとしても使用されていました。また、大橋営業所は一番変化の多かった営業所であったなあとこの特集を書いていて思いました。玉電代行に始まり、駒沢営業所からの移管や数多くの路線再編などがありました。そして、大橋営業所の役目として一番大きかったのは、渋谷駅に近かったということでしょう。運行調整の職員の方も自転車で渋谷駅に向かっていたともお聞きしています。 そんな訳で、玉電代行輸送は、昭和52年4月にいったんピリオドを打ちますが、その後ながらく大橋営業所が存続されていてまだその名残を多く感じることが出来ていましたが、平成14年の廃止により、その使命を終えたように感じるのは管理人だけでしょうか? |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|