東急バス研究室
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 TOP > 東急バス研究室 > 港北ニュータウンの変革とアクセス     平成27年2月21日更新

     港北ニュータウンの変革と交通アクセス 〜その1(08.10.15)

3つの大きな変革期
 1965年(昭和40年)に横浜市が港北ニュータウン構想を発表してから早43年が経っています。今でこそエリア人口約30万人の規模になりましたが、現在に至るまでには3つ、街の変革があったように思います。1つ目は80年代。大型集合住宅が建ち始めようやくインフラ整備が本格的に始まった頃。2つ目は93年3月の横浜市営地下鉄3号線あざみ野延伸。飛躍的に街が拓けていった頃。そして3つ目は08年の市営地下鉄4号線の開通と目黒線の日吉延伸。それぞれの時代をふりかえりながら東急バスについて考えてみます。

インフラ整備が本格的に始まった80年代

公団・公社住宅が建設される(83年(昭和58年))
 83年8月、現在の荏田地区に住宅都市整備公団(以下「公団と略します」)の「けやきが丘」「みずきが丘」県住宅公社の「かしの木台ハイツ」横浜市住宅公社の「しいの木台ハイツ」の入居が相次いで開始され、住宅街としてのニュータウンが芽生えてきました。1,404戸、延べ145,400uに及ぶもので、田園都市線江田駅へも歩ける距離に位置しています。しかし、当時の世相として住宅供給が低迷している時期でもあり、入居申し込み状況は予想を下回りました。84年(昭和59年)には横浜市からニュータウンの土地利用促進について計画の変更が提案されました。その中には学校用地の削減や企業誘致などによる多機能型の複合都市を目指すことが盛り込まれたものでした。

   資料 1-1 港北ニュータウン公営等集合住宅建設一覧
(閲覧休止中)
企業誘致が始まる(85年(昭和60年))
 住宅入居状況が芳しくない状況の一方、企業の中には東京と横浜の中間に位置し東名高速や第三京浜が走る立地条件に着目し先の横浜市の提案の具現化を希望する声が高まっていました。そして公団は所有地を民間集合住宅建設業者に対し分譲したり、市とともに企業の誘致を行い市街化促進を図っていくこととなりました。ただ、元々は住宅地として街づくりが進められてきたため、その要件の中に「公害や騒音のない研究施設」「研修所」「オフィスビル」が掲げられました。念頭に地域のイメージアップにつながる優良企業を誘致するということで地元合意もとれたようです。
 第1回目の誘致で決まったのはリコー研究所とデュポンリミテッドカンパニーテクニカルセンターでした。その後も有名企業や地元大手企業、学校法人の進出が決まり10年間で43施設51haが建設されました。この中には武蔵工業大学や洗足学園、サレジオ学園なども含まれ交通機関に学生需要も生まれましたが、多くの企業では就業人口は敷地面積に見合うほど大きいとはいえるものではなかったようです。

   資料 1-2 港北ニュータウン誘致施設一覧(閲覧休止中)

その他のエリアのできごと
 ニュータウンの基幹となる道路ができ始めました。江田駅-新栄高校入口-新開橋や新栄高校-新北川橋など第三京浜や国道246号線と接続する広い道路ができることによりエリアへのアクセスが少しずつ改善されていきます。また牛谷戸-田辺交差点など従来未開通だった区間が完成することにより都市計画図のような直線的な2車線道路もできてきました。
 商業施設では鷺沼とうきゅうや東急百貨店たまプラーザSCなどの大型店の開店がありました。田園都市線沿線も人口がある程度増えてきたことでの需要の拡大・掘り起こしが始まってきました。しかし依然として住宅地の中心は荏田から泉田向地区あたりまででした。有閑地利用の代表的な時限施設としては現在の都筑区役所付近に港北ニュータウンメイズ(迷路を抜けるアミューズメント施設)が開設。当時の迷路ブームにも乗り一時期賑わいを呈しました。

当時の東急バス
 ちょうど大改革の時期に当てはまります。 中延営業所の廃止、青葉台営業所の新設(81年)。また駒沢営業所の廃止(84年)、虹ヶ丘営業所の新設(86年)など神奈川県内へのシフトが進んだころでもあります。田園都市線沿線の整備は進められましたが、残念ながら港北ニュータウンエリアについては荏田南地区へ横浜市と共管の路線新設程度にとどまっています。グループ全体の田園都市線沿線開発の促進継続、ようやく始まった港北ニュータウンエリアのインフラ整備という状況の中ではいたしかたなかったのかもしれませんがもう少し目を向けていれば、この後の状況は変わっていたかもしれません。

   資料 1-3 東急バス路線図(昭和61年)(閲覧休止中)
       1-4 新設路線一覧(昭和59年から昭和62年)(閲覧休止中)

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